本作の主題歌「坂道」の作詞・作曲を担当くださった井筒節先生。作品に込めた想いを寄稿して下さいました。
長崎は、私にとって思い出深い街です。
2001年、大学院生だった私は、国が、県と市と人々の協力のもと行った研究の現地事務局を担当していました。1945年に原爆を体験された方々の心身の健康について、中でも「心」や「気持ち」に特に目を向けてうかがい、必要なサービスによりアクセスしやすくしようという取組みでした。事務局といっても、日本各地からの調査員の受入れ、漁村や農村にうかがうための何台もの車の手配、大量のカセットや電池の買い出しといった作業に追われ、街を巡ったり、長崎のおいしいお料理をいただいたりする時間はなく、毎朝6時前に調査票の印刷をお願いしに行く際の、海越しに臨む稲佐山が思い出の風景です。その時、何百人もの体験者の方々からうかがったお話は、私の生きる礎になっているように思います。
その後、私が開発途上国や国連で働くことになったのも、長崎で教えて頂いたことがきっかけの一つでした。世界では今も数百の紛争、そして迫害や差別が進行しています。その中で、多様な文化や考え方の「違い」をめぐる壁にぶつかると、NYから長崎に飛び、稲佐山のホテルから街を眺めては、かつて長崎でうかがった一言一言を思い出し、力をもらったものです。
松本監督から、被爆者の方々のドキュメンタリー映画への協力依頼を頂いた時、関わらせていただいて良いものか迷いつつ、作品を観ました。
人間の光にも影にも触れながら、皆さんが口々におっしゃる「恨みなどない」という言葉に、強く心動かされました。今と同じく、76年前に長崎にあった家族の時間、友情、悲しい出来事、愛、毎日の生活。
10人の皆さんの人生の一端を共有していただき、人生と人間の未来に光を感じました。監督に感想をお伝えする中で、最後に主題歌があった方が良いのでは、海宝直人さんにお願いしたらとお伝えしました。美しい歌声と生きる喜びや痛みを深く伝える表現と真摯なお人柄が、この映画を観終えたお客様の心を温かく灯し、映画に出演された方々の思いを次世代に繋げる輪を広げて下さるように思ったからです。そして、海宝さんとスタッフの皆様は、ご多忙極めるスケジュールをぬってそれを実現して下さりました。更に、若くして様々な大作の指揮を務められる森亮平さんに編曲とピアノをお願いできたら最高だと更に我儘を言うと、ちょうど「レ・ミゼラブル」福岡公演の休演日にお一人長崎の原爆資料館を訪れたばかりという森さんが、美しいアレンジと演奏をして下さりました。海宝さんや森さんとスタッフの皆様の才智と心のこもった作品作りを垣間見せて頂けたことは、多くの音楽制作に携わらせていただいてきた中でも、特別な経験でした。
曲は、長崎を思って書いたものです。
その後、この映画は、国連でも紹介され、海を超えて様々な人々に届きました。コロナ禍で上映が延期になりながらも、東京大学をはじめ、様々な学校や、渋谷ヒカリエで開かれた映画祭等で特別試写を重ね、ついに日本各地で上映されることになりました。UNiTeやEMPOWER Projectの若い方たちが深く共感し、長崎大学や長崎原爆資料館とも連携しながら、様々な形で協力されていたことにも感銘を受けました。
SNSやワイドショーを通して、声の大きい人の強い言葉が飛び交う時代。でも、本当は、声を上げない人の方が多い。そこには、とても大切な思いや真実があると思います。これまで戦争体験を語ることがなかった10人の皆さんの言葉や表情の中に、私は、人や生きることの本質を教えていただきました。事情も知らずに誰かを責めたり、争ったりするのではなく、困難な時も、自分の心の中の、そして、世界中の聞こえない声や心にしまわれた気持ちと事情に心を寄せ合うこと、そして、批判より感謝を大切にすることこそ、平和につながる、大事なことのように感じます。
東京大学総合文化研究科 井筒節