インタビュー アルパ奏者 小野華那子

小さい頃からお母さんの影響でクラッシックを聴き、5歳でピアノを始めた小野さん。アルパとの出会いは?
—-8歳の時に地元・青森でパラグアイ・アルパのコンサートがあり、母が連れて行ってくれたのがアルパとの出会いです。
アルパのコンサートでその音色に惹かれて、弾いてみたいと思いました。珍しい楽器なので、こうして続けて来れたのは本当に両親のおかげです。小さい頃は仙台と東京へ習いに行くのをサポートしてくれました。
アルパが与えてくれた変化はありますか。
—–引っ込み思案で発表会に出るのも母に背中を押されて何とか出ていたのですが、長年に渡るアルパとの暮らしの中で、自分らしさを出せるようになったと思います。アルパは楽譜がなく全てが手探りです。その分、失敗もたくさんあります。
失敗を恐れずにチャレンジできるようになったこと、失敗してもまたゼロから構築する勇気を持てるようになったことが大きな変化かな。

今回、「a hope of NAGASAKI 優しい人たち」で松本監督から作曲を依頼しました。小野さんにとっての作曲とは?
—–作曲は大好き。「好きすぎて、難しい」と言うのが本音です。
普段の練習の中で、素敵なワンフレーズに出会って一気に曲にすることもありますし、しばらく寝かせて見つめる事もあります。自分の持っている感性や周りの雰囲気に反響して曲になっていくので、無限の可能性があります。
演奏でも作曲でも、自分にとって難しかったり大変な道を選ぶようにしています。 越えなくてはいけない壁が多いと、挑戦も増え経験も深まります。 人の繊細さや悲しみや苦労、それを乗り越えた優しさなど人それぞれ持っている心の強さにとても惹きつけられ、知りたいと思っています。
さまざまな角度から物事を見ることで自分の中に落とし込まれ、自分の中の感性が研ぎ澄まされていく、この積み重ねが好きです。
ただ、今回のように「テーマ」があってその人の「想い」をどう表現していくかは、これまでにチャレンジが少なかったので、悩みもありました。
想像だけで作れるものではないなと思って、実際に長崎に足を運んだり、インタビューに同席させて貰いました。感じ取ったエネルギーや街に流れる空気。長崎の澄んだ空気が印象的で、「今の長崎」を感じ取ることができたことは大きかったと思います。

未来に向けて、どんな自分になっていきたいですか
—-楽譜のないアルパの世界で自分らしさの究極は「音色」だと思っています。自分だけの音色を通して、生きる楽しさや人間らしさを伝えるアーティストでありたいですね。
◆楽曲について◆
書き下ろし「旅路」「眠らぬ海」
「旅路」 日本人の少年が弾くオルガンを伴奏に歌っていた水兵の人々。このストーリーのために書き下ろした作品。
「眠らぬ海」 悲しみを表現する楽曲としてリクエストを受け、書き下ろした作品。
「追憶」 監督・松本がその音色に惚れ込み、本作での使用をお願いした作品。オープニングとエンディングの楽曲前に使われています。
◆アルパとは◆
パラグアイ、メキシコ、ペルー、ベネズエラなど中南米で演奏される。ラテンハープとも呼ばれ、中南米では民族音楽の演奏に使われます。クラッシックハープに比べると小型で軽く36−38本の弦と木製の胴体で構成されています。爪で弾くように弾くのも特徴です。
【プロフィール】 小野華那子
森県弘前市出身。現在は東京を拠点に各地にて演奏活動を行う。 9歳よりアルパを始め、本田宏彦氏、Chucho de Mexico氏、敏子・根津・Sandoval氏に師事。 2013年第9回全日本アルパコンクールにて準優勝、国際交流協会賞・千葉日報社賞を受賞し2014年にアルパの本場であるパラグアイへ留学をし、現地にて演奏経験を積み帰国。 新函館北斗新幹線開通に伴い弘前市・青森市・八戸市・函館市合同制作されたオフィシャル観光用プロモーションビデオテーマソング、青森ケーブルテレビテーマソングを担当。 NBFビルランチタイムミニコンサート全国ツアー、テレビ・ラジオ・新聞の出演等、NHKプレミアムドラマ楽曲参加。 学校公演、国立 弘前大学特別講師等文化広報の活動も務める。 パラグアイ音楽に加えラテン音楽・ポピュラー音楽等自らの編曲にて演奏をする。
インタビュー 監督・松本和巳
—–映画のきっかけとなった、「焼場に立つ少年」を目撃した村岡さんのお話を始めて聞いた時、どんな印象を受けましたか。
正確に言うと、映画化に繋がるきっかけです。元々長崎に通うようになって、純粋に被爆者の方々のアーカイブ活動だけでこのプロジェクトは収めるつもりでいました。
取材を進めていく中で原爆が投下された日に「焼場に立つ少年」と話をしたというおばあさんがいるとの情報が寄せられたのです。このおばあさんは「焼場に立つ少年」という認識ではなく、背中に子供をおんぶした少年と話をしたとのことでした。その時に「あれ、それって?!」と思い、情報元に「それって焼き場に立つ少年では?」と問いかけ、確認を依頼しました。返ってきたものは可能性が高い感触だったので、体調の良いタイミングで取材をさせてもらいました。
まずは少年の写真を見てもらったのですが、「ああ、この子、この子」と開口一番におっしゃったので、ゾクッとした記憶が。その子と話しをしたと言う場所を一緒に訪れ、記憶を遡ってもらいました。その時には村岡さんの存在は理解していなく、おばあさんの話とオダネルさん(写真を撮ったアメリカ軍のカメラマン)との時系列での整合性がとれないので、自分の中ではボツにしたのです。
そうした中、8月に西日本新聞が村岡さんのことを記事にし、その数日後にNHKが村岡さんの特集をやっていると長崎から報が入ったのです。その番組は長崎でしか放送しなかったので、なんとかVTRを手に入れ見た時に全身に鳥肌が立ちました。村岡さんが言っていることと、そのおばあさんが話していたことがほぼ同じだったのです。そして急遽村岡さんに取材を申し込み、お話を伺いに行きました。
そもそも二人に接点はなく、同じ子を見たという記憶が結びついた事に興奮が冷めやらなかったですね。取材を終え、編集に入り、何度もラフカットを作りました。長崎のメディアの方にもアドバイスをいただきながら、最終的に彼が焼き場に立つ少年だったと断定してまとめることは控えました。その時点では物的な結びつきなどはなく、記憶の繋ぎだけでしたので、記憶の曖昧さを指摘されたら厳しいとの判断です。ただ壮絶な環境での記憶はトラウマになるほどに鮮明であることもあり得ると思っていますので、個人的には神秘性を持って同じ少年だったかもしれないと今でも思っています。
その村岡さんとの話ですが、彼の情熱に惹きつけられました。現在進行系で制作している広島の原爆の話(原爆の子の像のモデルとなった佐々木禎子さんを中心にしたドキュメンタリー映画)でインタビューした森さん(被爆死した米兵の存在を明らかにし、彼らの遺品を家族に届けた)に通じるものがありましたね。二人とも孤軍奮闘でも諦めず、愚直に調べ上げていく姿です。時に変人扱いされ、周りから疎んじられても諦めない精神と言うか。

物事の結果は簡単に一言で言い表されてしまうのですが、そこに至るまでの過程や努力は隠れてしまう。いわゆる表層をすくって物事を理解した気持ちになってしまうのが、今の世の中だと思います。情報過多の時代なので。でもそこに至るまでのドラマを理解することが本当はもの凄く大切であると思うのです。村岡さんの活動は一人での展開なので相当な圧もかけられたようで、その度に気持ちが落ちたりしたそうです。何度か調べるのを止めた時期もあったそうですが、それでも今も諦めずに続けています。もの凄い情熱を感じ、思いも受け止めています。この感覚が少しでも若い世代に伝わったら良いとは思っていますし、この先の社会を作っていく上ではとても大事なファクターと思います。
自分も若い頃は、サラッと諦めることがカッコいいと勘違いしていました。あるあるの話ですが、逃げているだけだったのかもしれません。でも信念を持って取り組むことは、コツコツでありながらでも続けることが大切なのだと教わった感じです。
そして劇場公開する前にぜひご覧頂きたいと思い、お話してくださった皆さんにはDVDにして送りました。その感想として村岡さんからお手紙を頂いて。少年への思いは今も変わらず活動していますが、この映画を観て思ったことは「少年を追いかけることだけではなく、長崎の思いを伝えていくことの大切さを振り返れた」と。ご自身も壮絶な被爆者でありながらも、少年の調査に偏りすぎていたかもしれないと、率直に感じていただいたようです。
大事なのは二度と焼き場の少年ような子を生み出さないことであり、そのためには自分の経験が活かされて欲しいと気持ちにも少し変化があったようです。我々が残していかなければならないのは、市民が犠牲になる戦争を生み出さないマインドを醸成してもらえるように、当事者の声を届けていくことだと改めて思っています。
—–その後、「今なら話してもいい」という出演者の皆さんと出逢います。強烈な体験をした一人一人の生きる力の強さみたいなものを、映像から感じたのですが、彼らの「強さ」の正体はなんだと思いますか
人それぞれだと思います。ここには登場していない方々のほうが多いわけで、もちろんある一面の紹介に過ぎないのはわかっています。恨んでいる人もいるでしょうし、ネガティブになっている方もいるでしょうし。ただ一つ言えるのは、取材した方々全てが「恨み」という感情を持ちえていなかったのは驚きでした。
一番初めに取材したのは大塚さんでしたが、あれだけの惨劇を経験したにもかかわらず、アメリカを恨んでいないという言葉を聞いた時、正直耳を疑ったのは今でも覚えています。自分が思っている感情とは違うものが言葉として、表情として出てきたのです。そこからこれは全員に「恨んでいますか?」と聞かなくてはと思い、実際必ず聞くようにしました。そして2人目、3人目と重ねていっても、皆さんが同じように恨んではないと。その辺でだいぶ自分の中での価値観が変わっていく感触があったのでしょう。
長崎の人たちに「恨んでないって言うんですよ。どう思います?」と質問しまくったのも覚えています。「キリシタンの街だったからじゃない」「おとなしい人柄が地域性かな」などの言葉はありましたが、それともちょっと違う感覚を受けています。そこから彼らと接しながら自分なりに思ったことは、“優しい“からだろうと。“優しい“という言葉は弱いイメージを抱かれる方もいると思うのですが、僕はそれこそが強さだと思います。人に対して優しくできることって、自分に対して強くないと出来ないことだと思うのです。怒りをお返しにした時点で負の連鎖が始まります。当事者ならなおさら“許せない“という思いが、より深刻な事態を生み出す可能性すらあるからです。でも、許せない気持ちを抑えられたら、その後の展開はポジティブに向いていく可能性が高くなるのです。そうは言いつつも、家族や友が戦争の被害にあった場合、なかなかきれい事では済まないのもわかります。だからこそ、その状況を乗り越えてきた事も強さですし、それを負の連鎖にしない、人を許す力が有るとうことも強さかと。中には時が75年も経ったからだよ、という人もいますが、だったら同じ状況で許せますか?とも聞いてみたいです。
また生きる力の強さも、もの凄く感じています。志方さんのイジメの話も正面から受け過ぎてしまい、話を聞くことを一度止めたほどです。当時は差別、イジメは当たり前のようにあったようですし、原爆での被害から逃れられたとしても、その後に人からの攻撃で命を絶った方々もいたようです。その中でも生き続けてきた力、そして彼女が残した言葉(映画の中で確認してください)に彼女の強さを感じ、我々が人として向き合っていかなくてはならない事を残してくれていると感じます。
差別やイジメは今でもあり、今のようなコロナ禍でも繰り返されています。それは福島の原発事故でも起きたことです。残念なことですが、75年が経った今でも繰り返されているのです。人に対しての優しさを持てるというのが、彼らから学べることのような気がしています。それが強さですね。
—–逆に「弱さ」とは
弱さ…。なんでしょう?
あまり彼女らからは感じなかったと言うか。やはりあのような苦難を乗り越えてきた方々の経験は言葉で語り切ることは出来ないですし、一つ一つの言葉に重みがあるので強さしか見えなかったです。
なので、逆に戦争を知らない世代の弱さが引き立ってしまうというか。先ほどもお話したように、寛容さなどは優しさがなければなれないと思うので、普通にその心を持っていることは凄いことだと思います。だからこそ取材を始めた時の驚きにもなったのだと思います。
ただ言えるのは、壮絶な経験が彼女らを強くしたのだろうと。戦争がなく、波風もなく生きていたなら、違った彼女らを見ているでしょうし、そもそも取材の対象にはなっていないかと。だからこそ乗り越えてきた方々の生き様と言うか、生きてきた過程を伝えていければと思っています。突然強くなたわけではなく、弱さを乗り越えてきて今があるとでも言うのでしょうか。そのような気持ちで観ていただけると良いのかと思います。

—–現代社会には様々な課題があります。生きづらいと言われる現代に暮らす人々に、何を伝えたいですか。
これも先ほどの質問と被ってしまうかもしれませんが、『見えているものだけで判断しない』ということが出来たなら、人の見え方も変わるかもしれません。インターネットの普及で情報過多の時代になっています。いとも簡単に情報が手に入れられる現代ですが、その情報って、、、と思うものもたくさんあると思います。情報の確かさが崩れ、偏りと偽りが蔓延している中で、本当に必要なモノを見つけられなくなっているとも思います。それが行き過ぎると、自分の中の処理だけでは済まず、他者への攻撃と変わっていくと思います。
戦争も同じことが言えると思うのです。当然、国という単位で成り立たせていくための資源獲得や覇権なども考えていくことは必要なのかもしれません。国を運営していくという点では…。ただ全ての国が、人が同じベクトルで動いたらぶつかり合うしかなくなるわけです。そこには偏った情報が集まり、処理できなくなった時にハレーションを起こし暴発する。
大事なことは物事にはそこに至る過程があるのです。その過程を見ずに論じても何も解決には向かわないと思います。断片的な情報だけではなく、そこにある思いも拾えたら見え方が変わるかもしれません。そして被爆者の方々を取材して思ったことは、幸せの価値観が身近にあるということです。物欲ではなく、平凡な望み。これが何なのかもお話したいのですが、ネタバレにもなるので劇場で確認していただけたら、いろいろな意味で嬉しいです。笑
その望みこそが戦争から逃れられた皆さんの総意とも感じます。
そしてそこから見えたのは、僕には『優しさ』だったのです。「原爆の話なのに何で優しいの?」と聞かれたこともありますが、観ていただいた後の一言は『“優しい人たち“の意味がわかりました』と。
この映画を通じて伝わったらいいなぁ、と思うことは、皆が今よりもちょっと優しくなれたら、世の中は平和の方向に向かっていくのだろう、と思うのです。コロナの時代に起きている差別やいじめって、75年前の状況と何も変わっていないとも思うのです。知らいないことに対する恐怖がどれほど人をおかしくしていくことかと実感しています。だからこそ先人の経験に耳を傾け、そしてその先を想像する力を養うことが求められているのかもしれません。
偉そうに言っていますが、それは自分に対しても言い聞かせていることです。彼女らの経験、話しが同じように届いてくれて、何かを感じてこの先に繋がっていくと良いなと。
【プロフィール】 松本和巳 KAZUMI MATSUMOTO

映画監督/演出家
ソーシャルイノベーター
一般社団法人シンプルライフ協会 代表理事
一般社団法人日本シングルマザー協会 顧問
NPO法人子育てパレット 顧問
長崎大学院熱帯医学・グローバルヘルス研究科 協力研究員
【映画製作】
simgle mom 優しい家族(ナレーティブ長編映画)監督・脚本・編集
a hope of NAGASAKI 優しい人たち(オーラルヒストリー・ドキュメンタリー長編映画)監督・撮影・編集